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聖ドミニコ・サヴィオ証聖者     若者、青少年の保護の聖人      記念日 5月 6日



 「罪よりもむしろ死を」これは少年聖人ドミニコ・サヴィオが7歳で初聖体を受けたときに立てた決心の一つである。実際、彼はイエズス、マリアに信頼し、利己心と戦い、聖ドン・ボスコの導きの決心を生涯守り通した。

 彼は1842年、イタリア、トリノ近郊のリバ・ディ・キエリの鍛冶屋の次男に生まれた。敬虔な両親に似て信心深く、5歳になるとミサ仕えをしようと、雨の日も風の日も毎朝教会に通い、その入り口にひざまずいて頭を垂れ、小さな手を胸に組んで戸が開くまで祈っていた。
 夕方、仕事に疲れた父親の顔を見ると、ドミニコは「おとうさん、疲れた?僕はいつもお父さんが元気でいるようにって、それから僕がよい子になるようにって祈っているよ」と言うのだった。小学校では勤勉で成績がよく、しかも信心深いので規定の11歳を繰り上げ、7歳で初聖体を許された。

 1852年、恩師クリエロ神父は10歳のドミニコのうちに司祭への芽生えを読みとり、念入りにこれを育てた。翌年の冬のある日、教室のストーブに石と雪が詰め込んであった。教師のクリエロ神父は怒った。犯人のいたずらっ子たちは怖くなって、おとなしいドミニコにその罪をなすりつけた。
 ドミニコはとんだ濡れ衣を着せられてびっくりした。最初は弁解しようとしたが、あとで黙っていたほうがいいと思い直し、皆にかわってさんざんにしかられた。しかしあとで全部はっきりした。「どうして最初自分でないと言わなかったんだ。」「先生、僕はイエズス様を考えました。イエズス様も不正な訴えをお受けになったのですから」少年ドミニコは人のために苦しむ価値をすでに悟っていたのだった。

 1854年、12歳の時、ドミニコはクリエロ神父の紹介で、青少年の教育を目的とするサレジオ会創立者ドン・ボスコに会った。その最初の出会いの印象をドン・ボスコは書いている。「すぐ親しみをもった。彼は私に、私は彼に・・・。」やがてドミニコはトリノ近郊のドン・ボスコの学院に入った。

 住み慣れた家や遊び仲間と離れてつらく感じるときとか、困難なときに、ドミニコは聖母の祭壇のもとにひざまずき、初聖体のときの決心を繰り返した「聖母マリア様、あなたに僕の心をささげます。いつまでもあなたのものとしてお受け取りください。一つの罪を犯すくらいなら、どうぞ僕を死なせてください」と。
 そして13歳のこの少年は、「僕が聖人になるのを神は望み給う。だから僕はそうならねばならない」という信念の旗を掲げて前進した。それにはドン・ボスコのすすめた方法、つまり「たえず平静な快活を保ち、信心と勉学の義務を怠りなく努め、友達といっしょに遊ぶのがよい」を実践した
 ドミニコはしばしば告解と御聖体の秘跡を受け、理由なく聴罪司祭を変えなかった。聴罪司祭を変えよと勧める友達があると彼はこう答える。「聴罪司祭は心の医者です。医者を変えるときは、その人への信頼を失ったときか、あるいは、もう病気のなおる見込みのないときです。僕はそのどちらでもないので変えません」と。
 14歳のとき「僕は聖母のために何かしたい。ときが無くならないうちに・・・」と考えたり祈ったりした末、仲間を集めて「無原罪の聖母の信心会」をつくった。この目的は、ドン・ボスコの手足となって、少年達を告解や、御聖体の秘跡に近づかせ、学院の生徒の道徳を向上させることにあった。
 たとえば、ドミニコは秘跡に遠ざかっている連中に近づき、ちょっとの休みの時間を利用してはなにげなくはなしかける。「土曜日いっしょに告解に行こうか?」相手はとっさに「そうしよう」と答える。ドミニコは、この「そうしよう」を忘れず、土曜日になると彼を誘ってドン・ボスコの許に連れていった。
 ある祝日に、一人の少年が一枚の新聞を学院に持ち込んだ。少年達は下品な絵や、わいせつ記事ののっている新聞を取り囲んで、げらげら笑っていた。ドミニコも何事だろうと近寄ってみた。彼は黙ってそれを取り上げ皆の見ている前で破った。
 「目は被造物の美しさを見るために神様から与えられたのだ。それにきみたちは霊魂を滅ぼすためにこんなものを見て喜んでいるのかい?」「別に喜んでやしないよ、見て笑っていただけじゃないか」一人がふくれっつらで答えた。「まさか笑いながら地獄へ行きたくないだろう?」「だけど君の言うほど悪いものではないじゃないか」「そうかなあ、こんなもの見慣れた人間だけだよ、そんなことを言うのは、きみ」真心からの忠告は皆の心にこたえた。彼等は黙って散っていった。
 だが、いつも忠告がすなおに受け入れられるとは限らない。ある日、ちょっと注意してやったひとりの友達から、ののしられたたかれた。ドミニコは怒りをじっと静めていった。「きみ、こんなことはもうしないでくれ、少なくとも他の人には・・・」また悪い言葉を口にする少年をいましめたり、石を投げ合ってけんかしている二人の少年を仲直りさせたりした。

 ドン・ボスコのすすめに従って、ドミニコはむち打ちや断食をあきらめ、その代わりに学校の規則を守ること、目と舌を慎むこと、侮辱を忍耐すること、暑さ寒さ、疲労病気を喜んで神の御手から受けることなどを自分の苦業とした。
 もともと身体の弱かったドミニコは、いつも忍耐づよく明るく生活していたが、絶え間ない精神の緊張と、熱心な勉強に精力を消耗し、とうとう肺炎の犠牲となり、1857年3月9日15歳の若さで神の御許に帰った。彼は死後、父に現れて、天国の光栄をうけていることを知らせた。

 教皇ピオ11世は、彼のことを「小さい偉大な聖人」、あるいは「精神の巨人」と呼び1933年に列福した。またピオ12世は1954年に列聖し、若者の保護者とした。

 聖ドミニコ・サヴィオは生前、特別な恵みを神からいただいており。まぼろしのなかで英国教会が、いつかローマ・カトリック教会と一致を見出すのをみて、それを預言したという。